昭和44年03月03日 朝の御理解



 御理解 第9節
 「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界は和賀心にあるぞ。」

 信心を頂く。お道の信心を頂いて、頂くということは、教えを頂くということにつながると思うんですよね。教えを頂いて、信心の稽古をさしてもらうと、どういうことになっていくかと。またどういうことになっていかねばならんのかと。信心をしておれば、一年々有り難うなってくると申されますが。あのう有り難うはなっていないにしても、その有り難うなっていく基礎が、段々出来ていかな何にもならん。段々この有り難うなっていくと。まぁそれのようなものですけれども。
 あのう有り難うなっていったら、あのうどういう事になるかと。いわゆる今日の御理解の心を広うもっておれとこう仰られるも。心が広うなって来る。その過程としてまぁここでは限りなく美しゅうならして貰おうとかね。いよいいよ大きな豊かな心を目指してとかね、より明るくよりにこやかにと、いう様な事になってまいりますね。成り行きを大事にさして頂くと。これなどは本当に心が広うなっていくもう信心の稽古になる。一番有り難い頂き方ですね。成り行きを尊ぶとか成り行きを大切にするという事は。
 ところがです。そういう様々な教えを頂いて、様々に取り組ましてもろうて、まぁ一日一日有り難うなっていく事に、努めさせて頂く事ですけれども、もう有り難うなっていくという事はですね、確かに心が広うなっていかなければならんようにですね、有り難うなっていく事によって、心が狭うなっている。ということはそのどういう事かというと、なんと申しましょうか、不信感とでも申しましょうかね。
 もう自分以外の例えば人ですかね。人間みんな当てにならない信じられない、そういうことになって来るんですよ。いうなら最愛の家内でも一番大事な親でもね、可愛くてたまらん子供でも、実を言うと段々分かっていくと、頼りにしとりますよというその人もです、頼りにゃならんない事になる。それを私は今日は不信感とか信じられないと。いわゆるそれでそのう、いわば心が小さくなってくる。これはね不思議な事ですよね。大きなお家に住んでおりますと、なかなかお掃除が大変です。
 それを綺麗にしていくという。広い心をねお掃除をさして頂いてです。けれどもね狭い心狭い狭い範囲をお掃除するのは容易です。みやすいです。そこからですね本当の意味においての、本心の玉を磨くというね、自分の心が狭うなる。段々狭うなって参りますとですね、その狭い心を本気でそこだけ、高め極められるようになる訳ですね。広い心を見極めるのはなかなか難しい。けれども狭い狭いその心は、そこの一点を見つめる事が出来る。いわゆる自分の心を深くこう見つめる事が出来る。
 清めるといっても清めんでも良い事になる訳です。自分以外の全てのものが信じられなくなって来る。それでなら不幸せかというと決してそうではない。信じられない家内でも信じられない親でも子供でも、自分の周囲の人達までも、いよいよ大事にしていかなければならないものが生まれてくるんです。それはなぜかというと、その自分以外のものが信じられなくという事と同時に、それにそのう正反してですね、いよいよ神様が信じられるようになるからです。
 私は最近に到って、まぁだそんな事かと人から笑われるかもしれんけれども、最近になって本当にあの、世界真の平和、総氏子のいよいよ立ち行きを、又は様々な新聞紙上に賑わしておるところの社会問題、そういうような社会問題といった様なものに、事に対する祈りというものがあですね、言うなら切実になって来た。という事は、祈らなければおられなくなって来た。それは自分の心が大きくなったから、広うなったからじゃない。いよいよ自分の心が狭うなってきた。
 だから狭うなって来たけれども、それはいよいよ拙い信心だけれども、それが狭くなって来れば来るほどに磨き良い磨きよいから光りを放ってきた。まぁ言うならば心が光りを放ってきた。とでもいう訳でしょうかね。切実にそれを祈らなければならない、しかもそれを本当にいの一番に祈らなければおられなくなって来た。それも最近私は。誰の事よりも彼の事よりも、いや自分自身の事よりもです。私は今までまず自分の助かり、先ずは自分が助からなければとこう。
 ところが自分の助かる事までは、もうとても待っちゃおれないということ。そしてそこに例えば祈る言葉に礼を申しますならばです、本当に拙い私の信心ではございますけれども、ささやかな信心ではございますけれども、やはり祈らなければおられない。それが切実である。世界の真の平和を祈らなければおられない。世界人間氏子の、世界中の人間氏子の、いわゆる総氏子の身の上安全とまではいかんにしても、とにかくとにかく立ち行かなければならない。
 厳しい言わば現代の様相の中にです、いわゆる何て言うんですかね、現代を祈るということ申しましょうか。そのことが非常にこの頃切実になって来たんです。天地金乃神は宗旨嫌いをしない。信心は心を狭うもってならんと。不思議なことに心を広う自分を広う、持っておると思うておった間は、切実感がなかったんですね世界真の平和でも。人間の総氏子の身の立ち行きでも助かりでも、社会問題なんかも無関心とまではなくてもですね、それを本当に切実に祈るという様な事は、出来なかった私がです。
 最近それが出来る様になった。それは心を狭うもってはならんと仰せられるけれども、もう実に狭い狭い心である自分に気がつく。というのは、いうなら孤独感に襲われるといった様な事だろう。襲われる事ははないね。孤独感。心が寂しくなるそのことじゃない。もう確かにあのうその孤独感ですね、もういうなら世間が狭うなってしまうことです。なぜって最愛の家内でも子供でも親でも、全ての自分の周囲におられる人達のことが、信じらなくなるんですから。
 と言うて信じられないということはね疑うということとは違います。あれはこういうことを企んでいるんじゃなかろうか、とかなんていう憶測とかね。そういうことではないです。そして信じられるものは、あなたお一人ということになってくる。神様だけだということになってくる。そこからです限りない私喜びが湧いてくる。だから小さいところからでもです限りなく湧いてくるもの。それが本当にこう潤うてきたという感じ。その潤いの心がですねそのゆとりがですね。
 それが自分以外のしかも今までは祈れなかった、切実さがなかった世界真の平和が祈れるようになってきた。ですからもうこりゃもう本当に拙い信心、ささやかな信心小さい小さい私の心から、沸いて出るその祈りでありまたは喜びでありますから。けれどもそれは祈らねばおられなくなって来たというところにです。今日の御理解9節を頂いてから、狭うもってはならんとか、広う考えておれとか、世界は和賀心にありというふうに、ここには教えておられるがですね。
 そういう私は祈りが出来れる様になったということが、既に世界中の事が祈れるようになったことが、既に世界は和賀心にあるという、まぁ一面ではいわばそれを広々大きな心ということになるのではなかろうか。自分の事ばっかり言うて、人のことは願わんと言われておる間は一つも、人の事が実際に実感をもって祈れなかった。ところが自分の心をいわば孤独とも思われるね、小さい小さいその心というね、小さい狭いそのうところへ自分の心が、おかげを頂いてまいりましたら。
 まぁ絞ってまいりましたらということになりましょうかね。それはちょうど広いところならば、なかなかお掃除も行き届かんのですけれども、狭いところだったら何べんも何べんも、拭いたり磨いたりもできる。その磨かれるその光り輝きです、それがいわゆる信心ありかた。その小さいその心をいよいよ限りなく美しゅうしていくというような感じ。自分だけの事を願うということではなくて、そういう例えば狭い小さいその自分の心というものが、どういうことからもって来るかというと不信感からである。
 自分の周囲の全ての全てのこりゃまぁ人なら人を、信じる事が出来なくなる。というてそれは疑う訳じゃない。疑うのではないけれども信じられない。いよいよ信じられるのはあなた一人。いわゆるあなたのおかげを頂かなければ立ち行かないことの、実感でありその感動がある。世界真の平和を祈らせられるものになっておる。全ての人の立ち行きを願う、社会問題が身近に感じられる。そこから祈りを発する。その祈りは実にいわば自他ともに助かっていけれる実感。
 間違いなく私のささやかな祈りではあるけれども、世界真の平和に貢献できる心。世界総氏子人間の立ち行きにも、ささやかな祈りではあるけれども、間違いなく神様がお聞き届けくださってある実感。そこからいよいよね、狭い小さい心からね、いわば汲めども尽きぬこんこんと湧いてくる、こんこんとして湧いて出る泉のように、喜びが湧いてくる。その喜びが自他ともに助かる、生かされる働きになっていくのだと、いうふうに私は感じるのです不思議な事です。世界真の平和なんて実に空虚なものであった。
 世界総氏子の助かりなんてただ唱えておる、拝詞の中に唱えていて唱えておるけれども、それはもう本当にうつろなただ言う祈り言葉に過ぎなかった。それがおかげで段々周囲のものが信じられなくなってきて、神様だけしか当てにはならん頼りにはならんという、いわゆる神様以外に対する不信感がですね、その様な風になって来た。これは最近の私のこれは信心の動向です。そしてここんところをもう一遍頂かしてもろうて、例えば言葉は全然反対ですけれども。本当の芯はその様な事ではなかろうかと。
 私のいわゆる実感からおして感じられるのです。天地金乃神は宗旨嫌いをせん。信心の心を狭う持ってはならん。心を広うもっておれ世界を広う考えておれ世界は和賀心にある。世界中の事がその実感をもって、ささやかな私の様なつたない信心で祈ってもですね、まぁ詰まらん事ではありましょうけれども、祈らなければおられないというその心がですね、世界中の事を祈らなくてはおられないその心をが、世界は和賀心にあるという事に繋がるんじゃなかろうかという風に思うのです。
   どうぞ。